
「会社に縛られず、好きな場所で自分らしい働き方をしたい」
「いつか自分の事業を持ちたい」
働き方や生き方への思いを抱く一方で、起業や移住となるとハードルが高くてなかなか動き出せない。そうやって足踏みをしている人も多いのではないでしょうか。
都市部の大企業から、フルリモート勤務のベンチャーへ。本業はそのままに、副業で関係性をつくってから地方へ移住。暮らしと仕事のベースを整えた上で、やりたい事業に小さく一歩を踏み出し、少しずつ成長させていく。そんな暮らし方・働き方のシフトを長野市で実現させた人がいます。
今回は、関東郊外から長野市に夫婦で移住し、お酒を飲みながら絵を描くアート体験を提供する「SAKE ART」を立ち上げた目黒健太郎(めぐろ けんたろう)さんにお話を伺いました。
総合リース会社に勤務し、クリニックの開業支援やスタートアップ投資などを担当していた目黒さんが、なぜ長野で起業することを選んだのでしょうか。その背景には、コロナ禍をきっかけにした働き方の見直しと、「NAGA KNOCK!(ナガノック)」という副業プログラムを通じた地域との出会いがありました。

目黒健太郎(めぐろ けんたろう)さん
株式会社ARTLIER 代表取締役/NAGA KNOCK! 1期生
1988年、神奈川県生まれ。新卒で総合リース会社に入社し、11年間にわたり医療機関の開業支援や国内外のスタートアップ投資に従事。その後、専門人材データベース企業に転職し、フルリモート体制で全国の自治体と連携した地域企業への人材マッチング事業を推進。
2022年4月、「NAGA KNOCK!」への参加を機に長野市へ夫婦で移住。移住直後より長野市の起業コミュニティの立ち上げ・企画運営に携わり、現在も地域の挑戦者を支える場づくりを継続中。
2024年6月には、自身の「やってみたい」を形にした、お酒を飲みながら名画が描けるアートスタジオ「SAKE ART」を開始。2025年12月に法人を設立。お酒とアートを通じて、誰もが素顔に戻れる「大人の遊び場」を創出している。
SAKE ART 公式サイト
聞き手:風音(フリーライター)
お酒を飲みながら絵を描く、新しいアート体験
お酒を片手に、まずは乾杯。肩の力を抜いて、インストラクターの指示に沿ってほろ酔い気分で絵筆を動かしていくと、たった2時間で自分でも名画が描ける――。目黒さんが長野市を拠点に提供する「SAKE ART」は、従来の絵画教室とはひと味違ったカジュアルなアート体験です。

「お酒を飲みながら絵を描くアクティビティ“ペイント&シップ”はアメリカが発祥で、現在アメリカ全土に1,700施設もの提供事業者がいる一大レジャーとして認知されています。
私たちが行う『SAKE ART』では、インストラクターが順番に描き方のポイントを教えていくので、初心者でも作品が完成できます。技術の向上を目指す絵画教室ではなく、『自分にも描けた!』という自己肯定感を得られる交流の場を意識しています」
2024年6月に長野市でスタートした「SAKE ART」は、現在月4回程度のペースで定期イベントを開催し、1年半で400人を超える参加者を集めています。定期イベントに加えて、企業の懇親会や福利厚生の一環としてプライベートイベントを行うことも。長野ならではの特色として、酒蔵や美術館での特別イベントもあります。
「長野は新潟に次ぐ日本第2位の酒蔵数を誇る地域です。2026年1月には、長野市の善光寺の門前町にある歴史ある酒蔵『善光寺外苑 西之門 よしのや』とコラボし、酒蔵のなかで日本酒を飲みながら葛飾北斎の絵を描くイベントを企画しました」

イベントは告知直後に予約が満席に。参加者からは、「普段なかなか入れない酒蔵のなかで、日本酒を飲みながらみんなで北斎を描いたというのはすごく非日常な体験だった」と好評でした。
長野県小布施町(おぶせまち)での取り組みも印象深いものでした。小布施町は、葛飾北斎が晩年を過ごした土地で、北斎を支援していた髙井鴻山が当主をしていた酒蔵など、北斎にゆかりのあるお酒もたくさんあります。
「北斎館で実際の作品を鑑賞した後に、北斎にゆかりのあるお酒を飲みながら北斎の絵を描くというのは、日本全国探しても小布施町でしかできない特別なものでした。信濃毎日新聞にも記事にしていただき、地域貢献としても新しいコンテンツを提供できたと思います」

受け入れ側の企業や地域の反応はどうだったのでしょうか。
「最初は『お酒を飲みながら絵を描く』こと自体が『何それ?』という感じでした。“ペイント&シップ”は日本ではまだ基本的に東京などの大都市圏にしかありません。100人に聞いても1割程度しか知らない、実際に体験したことがある人は5%以下という状況です。
ほぼ知られていないものを取り入れることに最初は戸惑いもありましたが、実際に体験してもらったり、これまでのイベントの写真や動画を見せると、参加者が皆笑顔で絵を描いている様子を見て『1回やってみよう』とポジティブな反応をいただけるようになりました」
地道に活動を続けていくうちに、地元メディアや新聞で取り上げられる機会が増え、徐々に認知されるようになりました。参加者からも、「こんなイベントを長野でやってくれてありがとう」「こういうアクティビティを待ってました」という声が多く寄せられています。
「特に地域の方からは『遊びの選択肢が限られているなかで、今までにない新しい遊びを持ってきてくれた』『ハマれる趣味ができました』という言葉をいただきました。
Googleの口コミでも『最初は不安だったけど、インストラクターが優しく教えてくれた』『自分で描いたものとは思えないほどの出来栄えになった』という声が多く、アートをもっとカジュアルに楽しめるものとして伝えられていることを実感しています」
組織で働くことへの違和感と、「NAGA KNOCK!(ナガノック)」との出会い
新しい文化と、その土地の持つ魅力が混ざり合い、日々進化を続けている「SAKE ART」。目黒さんがそんな「SAKE ART」の事業を長野で始めるにいたるまでには、自身のキャリアを見つめ直した過去がありました。
「もともと、都内の総合リース会社でクリニックの開業支援やスタートアップ投資、半導体融資を担当していました。
仕事にはやりがいと充実感を感じる一方、大きな組織だったので、会社の方向性と自分がやりたいことが必ずしも100%一致しないという違和感を感じることがあったんです。組織に依存しない仕事を持っていた方が、自分の人生としては幸せだなと考えるようになりました」

ちょうどコロナが重なり、リモート勤務が始まったかと思えば、数カ月でまた出社の指示が。事情が事情とはいえ、会社都合に左右される働き方への違和感が大きくなり、目黒さんはこれまでと違う働き方を模索し始めます。
「まずは副業から始めてみましたが、どうしても本業の勤務時間の制約がある。そこでまずはフルリモートのスタートアップに転職しました。通勤時間がなくなった分、様々な試行錯誤ができるようになって。ちょっと理想の働き方に近づけた最初のステップでしたね」
働く場所を選ばないフルリモート勤務。そこで目黒さんが拠点を長野市に移したのはどうしてだったのでしょうか。
「満員電車に乗りたくなかったので、人口密度が低く、都心から1時間圏内で新幹線が通っている土地を探していました。たまたまNPO法人ETIC.(エティック)のメルマガで、長野市の『NAGA KNOCK!(ナガノック)』のプロジェクトを知り、『仕事をしながら現地に通えて、住まいも見つかるかもしれない』と申し込みました」
「NAGA KNOCK!」とは、長野市で社会課題解決に向けた取り組みを行いたい経営者と共に新規事業を起こし、長野市で起業する人を生み出す9カ月間の実践型プログラム。ETIC.が長野市から委託を受けて運営しています。
目黒さんは、地域の企業と一緒に新しい事業を作っていくためのブレストやリサーチ、社内ピッチなどを行い、半分外部半分内部のプレーヤーとして新規事業案を考えていきました。

「そこで提案した新規事業を創出するためのコミュニティづくりの事業が、『NAGA KNOCK!』後も継続することになり、長野への移住を決めました。あの時申し込んでいなかったら長野移住もなかったし、こんな仕事の仕方にもなっていなかったと思います」
小さく始めて、段階的に広げていく
首都圏から地方へ。副業会社員からフリーランスへ。少しずつ自分の理想の働き方・暮らし方にシフトしてきた目黒さん。環境が変わったことで、自然と「自分の事業をしたい」という思いが大きくなっていきました。
「35歳で何もしなかったら何もやらないなという年齢的な焦りと、完全にフリーランスになったことで時間的な余裕も出てきたので、自分の事業の構想にちゃんと向き合えるようになったんです」
自分が楽しかったものや好きなものを扱った方がみんなに伝わる。そう考えた目黒さんは、前職でアメリカ駐在中に体験した「ペイント&シップ」を長野で始めたいと考えました。妻である佳美さんにアイデアを伝え、様々な方のサポートを受けながらまずは小さい単発のイベントから始めてみることに。

「最初のイベントは、シェアスペースを借りて、お酒を用意して、百均で備品を集めて……。アーティストの方に講師をお願いしても、10万円以下の金額で始められました」
しかし、もともとアートの経験はなく、まったくの初心者だったおふたりが、アート体験を軸にしたビジネスを展開することへのハードルはどう乗り越えたのでしょうか。
「最初は不安があったので、ほかの方に講師をお願いしていました。ですが、事業の軸である部分をずっと外部にお願いしていていいのかという疑問がありました。
『SAKE ART』のゴールは、うまく描くことではなく、楽しく描くこと・自分に自信を持つことです。そう考えると、10段階中の9や10のスペシャリストに教えてもらう必要はないなと。回数を重ねてポイントを押さえれば、自分たちでも十分インストラクターができるようになりました」

オペレーションや価格設定、すべてが手探りのなか、1回、2回と続けていくうちに形になってきました。徐々に口コミで評判が広がり、当初、参加者は友人・知人が中心でしたが、新しくきてくれる方も増えてきました。リピーターも増え、口コミがさらにお客さんを呼んでいます。
現在は、目黒さんが対外交渉とSNSの発信、佳美さんがテーマ開発とインストラクターを担当しています。

「夫婦で事業をする上で、同じことをやらないというのが唯一のルールです。お互いの強みと弱みを理解しているからこそ、完全に線引きをして、お互いが独立して仕事を進めています」
地域の可能性を活かした「旅するアート」へ
今後の展開や構想について、目黒さんはこう語ります。
「長野県は、日本で一番美術館と博物館が多い地域なんです。アートが身近にあって、酒蔵もあるし、ワインの産地でもある。お酒とアートを掛け合わせた文化そのものを、長野から発信していくことに可能性を感じています」

スタジオを持たない事業形態だからこそ、県内外での展開が広がります。2026年2月には、長野県塩尻市(しおじりし)のゲストハウスでもイベントを開催しました。塩尻市はワインの生産で有名な地域で、地元客と宿泊客が交流できるほか、イベント参加を目的に宿泊するという導線もつくれます。
「地元のワインを飲みながら絵を描き、そこに滞在する体験は、『また塩尻に来たい』という愛着を生むコンテンツになります。こういった地元密着の企画を県内各地で展開するとともに、『旅するアートスタジオ』というコンセプトで、長野県外でもその土地のお酒やアートを活かしたイベントを開催していきたいです」
企業向けの展開にも可能性を感じています。
「『SAKE ART』のワークショップは、老若男女が楽しめて、会話と創作への没頭の両立が可能です。エンゲージメント向上、カルチャーブランディング、新卒研修などへの適用余地があると考えています。自治体でのマッチング・婚活イベントなどへの横展開も考えられます」

さらに、オンラインでの展開も検討中です。画材やお酒を事前に送り、オンラインでインストラクターのレクチャーを受けながら絵を描くこともできます。海外から長野のイベントに参加した方が、帰国後にオンラインで長野のお酒を飲みながら北斎を描くといった展開も視野に入れています。
「私たちが長野で暮らしていて、長野との相性がいいから今は県内を中心に展開していますが、たとえば東北だって酒蔵はたくさんあるし、山梨にもワイナリーがたくさんあります。
今後は、そういった日本各地のいろんな企業やプレーヤーと連携していければ、国内の“ペイント&シップ”の市場が日本ならではのかたちで成長していくのではないかと可能性を感じています」
最後に、地方移住や起業を考えている人に向けて目黒さんからメッセージをいただきました。

「まずは小さく始めてみることをおすすめします。地域移住は引っ越しの延長線上ですし、事業も人生をかけた大事業ではなく、少ないお金からできることがたくさんあります。
人生をかけた大勝負ではなく、まずは一度できるところからやってみて、だんだんステップアップしていく。水面に小石を投げたら波紋が広がるように、まずはやってみることで、みんなが反応してくれて自然と事業が広がっていくイメージです。
逆に、反応がなければやめるという撤退の選択肢もあっていい。自分のペースで、ちょっとだけ背伸びしたやり方で進めてみてください」
無理せず、自分たちらしく。目指している地点に対して、一足飛びに思い切りジャンプをするのではなく、一歩また一歩と進みたい方向へシフトしていく。そんなグラデーションの変化を楽しむ。
人や土地との出会いを重ねて進化していく「SAKE ART」は、これからも長野や日本各地に彩りをもたらしていくはずです。
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