
ローカルベンチャー推進で、地域は変わったのか。
2016年にスタートしたローカルベンチャー推進事業(※)。地域に起業家が生まれ続ける生態系を創ろうというこの試みは、2026年3月、10年間に及んだ交付金による事業期間を終え、次のステージに踏み出します。
そこでこの特集では、本事業の主催者であるローカルベンチャー協議会の6つの参画自治体をひとつずつ取り上げます。行政と、民間の中間支援組織またはプレイヤー、双方の視点からこれまでの歩みを振り返り、ローカルベンチャー推進が地域にもたらした変化について聞きました。
今回は、岡山県西粟倉村出身の皆さんのお話です。
西粟倉村は2016年、NPO法人ETIC.と共にローカルベンチャー協議会の発足を呼び掛けた自治体。地域資源を活用する起業家を輩出してきた“西粟倉村モデル”は、全国的に注目を集め、協議会参画自治体の多くが参考にしてきました。
そんな村の変遷を最前線で見守ってきた初代ローカルベンチャーの國里哲也さん、地元企業の3代目、小松隆人さん。さらに最近村にUターンして就職・開業した山下里咲子さんと内海千夏さん。彼らの目に故郷・西粟倉の変化はどのように映っているでしょうか。
(※)ローカルベンチャー推進事業とは、主に地方において地域資源を活用して起業したり新規事業に挑戦したりする人・団体をローカルベンチャーと呼び、その輩出・育成を目指す取り組みです。NPO法人ETIC.(エティック)が事務局を務めるローカルベンチャー協議会が、2016年度より地方創生関連の交付金を活用して実施してきました。自治体ごとに行政と民間の中間支援組織とがペアを組んで参画するのが特徴です。1期5年、2期5年、合計10年間、延べ13自治体が参加した本事業の定量的・定性的な成果については、2025年7月に刊行した「ローカルベンチャー推進事業白書」にて紹介していますので、そちらもぜひご覧ください(記事末にリンク記載)。
岡山県西粟倉村の概要
人口:約1,300人
主要産業:林業
ローカルベンチャー推進事業への参画:2016年~現在

ローカルベンチャー第1号から見た村の変化とは――國里哲也さん

國里 哲也(くにさと てつや)さん
西粟倉村出身。専門学校卒業後、大阪府内の製薬会社に勤務。1995年、阪神淡路大震災を機に村へ戻り、森林組合に就職。林業の未来に危機感を抱き、新事業として企画した木工家具製作が森林組合の合併により頓挫。このとき独立を決め、2006年に株式会社木の里工房木薫(もっくん)を創業。全国でもめずらしい、林業経営と工房経営が一体化した会社として、山の間伐と整備、および切り出した木で製作した保育製品などの販売を行っている。
――國里さんは、ここ30年ほど、村の変化を最前線で経験してこられました。
國里:村が合併協議から離脱したのが2004年。その直後から私は、村の将来を話し合う「地域再生マネージャー会議」という会議体に参加していて、そこでの議論が2008年に「百年の森林(もり)構想」(※)という独自の村づくり構想につながりました。また、ローカルベンチャースクールという起業家育成プログラムが始まったのは2015年ですが、村が雇用対策協議会をつくってUIターン者の呼び込みを始めたのはもっと前の2007年です。
こうした一連の施策によって西粟倉村は移住者が増え、新しいビジネスが生まれ、人口減少も緩やかになって、全国的に有名になりました。
でも、私が村に戻ってきた30年前の状況は、全く違いましたよ。当時、私が森林組合に就職したのは、他に選択肢がなかったから。村で仕事を探そうと思ったら募集しているのがそこだけだったんです。都会の人には驚かれますが、そもそも村では「職業を選ぶ」という概念がなかった。だから、どんな仕事かも知らないまま、森林組合の面接を受けに行きました。
(※)「百年の森林(もり)構想」:周辺町村との合併の道を選ばなかった西粟倉村が、単独で生き残る道を考え抜いた末、2008年に打ち出した構想。村最大の資源である森林と林業を軸とした村づくりを目指し、複雑な地権関係をまとめて森林整備や林業の6次化などの事業を進める。事業開始より50年後の2058年を目標に、持続可能な森林環境「百年の森林(もり)」、その森林に囲まれた「上質な田舎」の実現を目指す。

――就職から11年後に独立して木薫を立ち上げるまでの経緯を教えてください。
國里:森林組合で働く間、私は林業が衰退していくのを目の当たりにしました。そこで、ただ木を伐って木材として売るだけでなく、自分たちで加工品まで作り、顧客を開拓して販売していかなければ林業は復権しないという考えに至ったのです。
最初は森林組合の中でそういう新事業を立ち上げるべく、準備を進めていましたが、組合の広域合併により、その計画が白紙になってしまった。村は合併協議から離脱しましたが、森林組合のほうは合併を断行したのです。
それならば自分でその事業を始めようと、組合を辞めて創業したのが木の里工房木薫です。村が独自の村づくりを試行し始めたあと、数十年ぶりに村に誕生した新しい会社という意味で、ローカルベンチャー第1号ですね。「森から子どもの笑顔まで」をコンセプトに、木を切るところから売るところまですべて自社でやっています。
――それだけ伺うと簡単そうに聞こえてしまいますが、ご苦労も多かったと思います。
國里:特に創業直後はなかなか厳しかったですね。普通に間伐しても採算が取れないから、間伐材を家具や木工品にするまで一貫して手掛け、それで山主さんにお金が返せるようにする、という構想でしたが、同様のコンセプトである「百年の森林事業」のスタート後も、地権者交渉などに時間がかかり、作業できる場所がなかなか出てきませんでした。森林組合の下請けや村外の仕事を探して、なんとか乗り切ったものです。

――村が移住支援・ローカルベンチャー育成に舵を切るきっかけを作ったのも、國里さんだったとか。
國里:結果的にそうだったかなと思います。木薫で必要としていたプロダクトデザイナーが村内で探しても見つからなかったため、役場に相談し、外から人材を求めることになったのです。国の補助金も利用して、大阪や神戸で求人活動をしました。
そのときに来てくれたIターン移住者は、田舎でスローライフを送りたいといった動機ではなく、「自分がやりたい仕事がたまたま西粟倉村にあった」という人。その後、村に雇用対策協議会ができ、仕事をつくって人を呼び込もうということになりましたが、その際も「地域貢献」などではなく「仕事」に軸を置いて募集したことは、非常に良かったと思いますね。私自身、西粟倉村のために創業したというつもりはなく、林業の復権が動機でしたから。
――國里さんから見た村の現状と将来はいかがでしょうか。
國里:百年の森林事業やローカルベンチャー育成のおかげで、村は一気に成長し、役場だけでなく環境全体が変わってきたと思います。ただ、今はちょっと「踊り場」にいるような感覚がありますね。西粟倉村は合併を拒否して以来、常に危機感を持って走り続けてきたんですね。今はそのスピードを少し緩めている状態かもしれません。
私自身もそうです。木薫を19年やってきて今は踊り場。これから“第2章”が始まろうというところです。今後もこれまで同様、村のためというより「自分のやりたいことをやる」という軸で進んでいくつもりです。ただ、私がやりたいことは絶対に村にとってマイナスにはならないと信じていますけどね。
同じように、行政職員の方々も「私はこれがやりたい」と熱意を持って発信してほしい。村の中には応援してくれる人がたくさんいますから、ドーンとやりたいことをやってほしいと思っています。
地元企業としてIターンだけでなくUターンも増やしたい――小松隆人さん

小松 隆人(こまつ たかと)さん
西粟倉村出身。1968年創業の土木建設会社、有限会社小松組代表取締役。子どもの頃から父親の働く姿を見て育つ。専門学校卒業後、岡山県内の建設会社に就職。2015年8月、父から経営を引き継ぎ3代目に就任。一般的な土建会社の枠にとどまらず、故郷の過疎化・高齢化、さらに移住者の増加に伴う課題を解決する新事業を立ち上げている。
――小松さんは、地域と共に半世紀近く歩んできた土木建築会社を引き継がれました。
小松:創業した1968年(昭和43年)当時、日本は高度成長の真っただ中。建設ブームの需要に応えるため、全国でスギやヒノキが一斉に植樹された時代でした。西粟倉もそうです。小松組にとっても初代の祖父の頃が、いちばん景気が良かったようです。
――その後、木材の輸入自由化などで日本の林業は衰退し、平成・令和を通じて日本の社会経済構造も、土木建設業の環境も激変しました。隆人さんは社長就任以来、どのような方針で経営されていますか。
小松:私が2015年に経営を引き継いで、まず着手したのは新事業の立上げです。地方の土建というと公共工事のイメージが強いですが、それだけに頼らず、小松組は「地域のよろず屋」的な存在になって、住民の「暮らしのお困りごと」に応える仕事をしたいと考えました。その後も、住まい探しに苦労する移住者や泊りがけの出張者向けの「コンテナ事業」、自社所有の山を使った「キャンプ場事業」なども立ち上げています。

――新事業に伴って、移住者を採用されたと伺います。
小松:最初の「暮らしの困りごと解決」事業を始めるにあたり、小松組としては初めて、村の雇用対策協議会から移住・起業支援事業を引き継いだ、株式会社西粟倉・森の学校(現在の株式会社エーゼログループ 西粟倉森の学校)と連携してIターン・Uターン人材を募集しました。
そもそも村に人が少ないという理由もありましたが、移住者を入れることで会社の雰囲気を変えたかった。なにより、自分自身が環境の変化を求めていたんですね。移住者と一緒に働けるような環境に変えていった結果、より柔軟性のある生き方ができるようになったと思います。
――移住者たちは地域に溶け込めていましたか。
小松:いや、当時はまだ、村民の間によそ者を受け入れる環境ができていなかったと思います。村は2009年度から「地域おこし協力隊」の制度を使って人を集めていましたが、地元の人にとっては「協力隊っていったい何だ、彼らは何をやってるんだ」といった部分も残っていたんです。
でも私は、同じ人間なのだから、外から来た人も住みやすいようにしてあげたいと思いました。具体的に何をしたかというと、とにかく一緒に飲みまくる(笑)。移住者は、「知らないことだらけ」とか「頼る相手がいない」といった不安を抱えています。私が積極的に移住者と関わることで、彼らが感じるそうした障壁を少しでも低くしたい。そう考えて最初の5年くらいは活動していましたね。
――村の変化について今思うこと、将来に向けてのお考えを聞かせてください。
小松:Iターンのローカルベンチャーが次々立ち上がるなか、私としては地元企業のがんばっている姿も見せたいと思ってやってきました。それによってIターンだけでなくUターンも増やしたかった。最終的に大事なのは、村に地元出身者がたくさん残っていることだと思うからです。これについては最近、昔の同級生(後出の内海千夏さん)が村に帰ってくるなど、うれしい知らせを聞くようになりました。
一方、村全体については、このところ水平に近づいているというか、少々立ち止まっているような印象がありますね。逆に、今こそ登らなければならない時期だと思うんですが。個人的には、次のステージに向かう準備を進めていく予定です。
故郷へ戻って就職・開業を決意――山下里咲子さん・内海千夏さん

山下 里咲子(やました りさこ)さん
西粟倉村出身。2023年に県外からUターンし、翌年株式会社エーゼログループに入社。自然資本事業本部にて、企業研修や視察受け入れの窓口および運営全般を担当。
――山下さんが故郷に戻る決意をしたきっかけは何でしたか。
山下:18歳で大学進学と同時に村を出て12年間、大阪などで過ごし、30歳で村に帰ってきました。いつかは帰るだろうという思いはありましたけど、そのタイミングでUターンを決意する大きなきっかけがあったわけではないんです。いろいろなご縁が重なった、という感じですね。
むしろ、この10年間で雇用が増え、村内で働く場所を選べるようになり、人が集まる場所もできたりと村が徐々に変化をしてきたからこそ、「これだ」という決め手がなくても帰ってこられたのだと思います。
――変化を感じる具体例を挙げていただけますか。
山下:物理的な変化で言うと、村役場や図書館がきれいで明るくなったのが印象的ですね(注:2021年に村の間伐材を使った新庁舎が完成)。若い人が役場で働いているのも新鮮ですし。それから、昔と違って村にいながら全国各地の様々な人と出会えるようになったのは大きな変化です。500年の歴史を持つ岩倉寺の「はだか祭り」も、地元の人に加えて移住してきた人たちが積極的に参加しているのもうれしいですね。
また、私が幼少期に参加していた村のクラブ活動に、今、大人ボランティアとして再び参加しています。当時は言うことも聞かず、迷惑をかけては怒られていた役場職員の皆さんと、「そんなこともあったね」と笑い合いながら一緒に乾杯できた夜は、村に帰ってきてよかったとしみじみ感じました。
――今後の抱負を聞かせてください。
山下:エーゼログループは、西粟倉でずっとローカルベンチャー育成や関係人口創出などに携わってきた会社です。そこで仕事をするようになってあらためて、西粟倉は外の人たちにこれほど興味を持ってもらえる村なのだとわかり、やりがいを感じています。今後は、Uターンした自分が元気に仕事をしている姿を昔の同級生などにもっと知ってもらい、「地元でも普通に働いて、普通に生活できるよ」ということを伝えていきたいです。

内海 千夏(うつみ ちなつ)さん
西粟倉村出身。高校卒業後、大阪の美容室経営会社に就職。関西圏で異動しながら24年間、美容師として勤務。2023年に5月にUターン。同年8月、美容室Na-tu Beauty(ナツビューティー)を開業。
――内海さんがUターンを決めるまでの経緯を教えてください。
内海:20年以上美容師として働いてきて、もともとUターンするつもりは全くありませんでした。ただ、両親が高齢になってきて、頻繁に村へ帰省するようになると、そのたびに「村に若い人向けの美容室がない。ここで(美容室を)やればいいのに」という話を聞くようになったのです。
当時の私は、サラリーマンとしては正直「やりきった感」があって、この先どうしようという気持ちも芽生えていたんですね。それで、村のことを調べ始めると、以前は閉鎖的だと思っていた村が、移住者も増えてずいぶん変わったらしいと。さらに、地域おこし協力隊という起業サポート制度があることも知り、これならやっていけそう、というイメージが持てたため、戻ることを決めました。
店舗をつくるにあたっては、適切な土地が見つからないという問題がありましたが、たまたま実家が購入していた家があり、そこを改装してスタートできました。開業後も業務委託の形で月一度、前職の美容室に通い、都会のトレンドを学んで技術をアップデートしています。
――実際に戻ってみて村の暮らしはいかがですか。
内海:田舎は不便というイメージがありましたが、いまどきはネットで買い物すれば何でも届くし、人付き合いも楽しくて、ストレスは全然ありません。思ったよりも自由に動けるし、わからないことがあれば同級生(前出の小松隆人さんなど)に相談することもできる。そういうコミュニティがあったからこそ、帰りやすかったところはありますね。
――開業3年目(取材時)ですが、どんな将来をお考えですか。
内海:現在、お客様は村内の方が8割ですが、少しずつ近隣にも広がっています。移住者を中心に若い方が多いため年代層が幅広く、男性客も多い。美容室にとっては理想的な客層分布です。まだ伸びしろはあると思うので、これからも地域に根付いた美容室としてがんばっていきたいです。
私は、「人口1,300人の村でもちゃんと経営が成り立つ」という成功事例になりたいと思っています。それによって、一歩踏み出すのに不安を感じている人たちの背中を押せる存在になれたらいいですね。

西粟倉村役場の産業観光課で2017年から8年間、ローカルベンチャー推進事業に関わってきた萩原勇一さん(現・建設課長)のコメント
「ローカルベンチャー推進事業を10年間、その前の雇用対策協議会時代から数えれば20年近く、移住者を呼び込む政策を続けてきて、今の西粟倉村はそうした政策に頼らずとも人が人を呼ぶ状態になってきたと思います。
IターンもUターンも、移り住んだら同じ住民なので、そこを区別したいと思いませんが、一方で、山下さんや内海さんのような“西粟倉ネイティブ”が戻ってくるのはとてもうれしいこと。ここで生まれ育った子どもたちが戻ってこられる地域づくりは続けていきたいですね。
今後、Iターン移住者の子どもたちが育っていって外に出て、やがて帰ってくればUターンとなります。そのような子どもたちを地域として育てていけるように、地域づくりや政策ができていければいいと思います」
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